スコセッシ監督の「沈黙―SILENCE」を昨日横浜のセンター北で見た。予想にたがわずハードで重たい映画であった。江戸初期の鎖国政策による厳しいキリシタン弾圧がこれでもか、これでもかと描かれていく。よく言われる踏み絵のシーンはまるでドキュメンタリー映画を見ているかのような迫真性に満ちていた。目に見えるような暴力だけでなしに、内的な暴力というもの(不安や緊張や恐怖)が渦巻いているスクリーンというものを久しぶりに体感した。さすがは、マーティン・スコセッシ監督であった。
この映画の見どころは、キチジローを演じる窪塚洋介の前半、通辞役浅野忠信、井上様のイッセー尾形の後半といったところか。モキチ役の塚本晋也も含め、日本が誇る個性的な名優である。165分という長めの尺だが、ちっとも長さを感じさせなかった。
ところで、昨日の朝刊では文科省の新しい学習指導要領案が報じられていた(朝日朝刊2/15)。見出しに"指導要領から消える「鎖国」"とあって、目にとまった。『「鎖国」は、「江戸幕府の対外政策」に―。社会科では、学会などでの歴史研究が進んだことなどに合わせ、歴史上の出来事や人物名の表記を変えるケースが小、中学校合わせて6件あった。文科省は、鎖国について江戸幕府が窓口を制限しながらも海外との交易を続けていたことを重視し、「鎖国」とう表現も当時は使わなかったためと説明。「鎖国」は指導要領から消える。…』
「江戸幕府の対外政策」とは何か?日本人・外国人の出入国管理の厳格化、キリスト教宣教師の布教禁止、棄教、日本人キリスト教徒の弾圧、治安維持…などか。限定的な海外交易があったとは言え、こうした閉鎖主義・排外主義をもって「鎖国」政策と言ったのではないのか?少なくとも幕末の開明派が主張する「開国」の反対語としての「鎖国」政策とは、江戸幕府のそうした体制への批判であった。人間性無視の生きずらい体制、、、この映画「沈黙」に描かれる惨状がまさにそれを物語っている。
「なぜ弱きわれらが苦しむのか?」それは、信教の自由などの内心の自由を許さない閉ざされた国であったからなのだ。
原題:SILENCE/製作年:2016年/製作国:アメリカ/上映時間:165分/監督:マーティン・スコセッシ/原作:遠藤周作/キャスト:Rodrigues=アンドリュー・ガーフィールド、Ferreira=リーアム・ニーソン、Garrpe=アダム・ドライバー、Father Valignano=キーラン・ハインズ、キチジロー=窪塚洋介、通辞=浅野忠信、井上筑後守=イッセー尾形、モキチ=塚本晋也、モニカ=小松菜奈他