ロラン・バルトという人はさすがにスゴイ思想家だ、というのもこうした前回書いた観る者の心にはっと感動を呼び起こす写真の要素(ストゥディウムという教養文化としてのテーマとそれを破壊し心に傷をつける点であるプンクトゥム)という分析を彼は最後に放棄する。(彼の言葉でいえば、「前言取り消し」)
彼は、ある写真に「なぜ感動したのか?」という主観内部への自問から、その写真一般という対象に、ある普遍的な規則を見出すということがいったいできるのかどうか、という疑いをかけるのである。(同書72ページ)
「私は自分の快楽が不完全な媒介であるということ、快楽主義的な意図に還元された主観性は普遍的なものを認識しえないということを、認めざるをえなかった。」
こうして、かれは思索の舵を正反対に取り直す。
「私は自分自身のなかにされに深く降りていって、「写真」の明証を見出さなければならなかった。」
明証。まさに写真を観る者ならだれでも見てとれるその写真そのもの、自分にとりその写真が決定的であるその当のイメージ、纏わる思い出、、、。それが何であるのかを記述しようとしていく。つまり現象学的方法をもって写真の本質にせまろうとするのである。
彼にとり、まったく個人的であるが、決定的なプンクトゥムを含む写真は「温室の写真」と彼が名づける「幼い母(=つまり子供)を写した写真である。それには「死」の問題が深くかかわり、ここで説明することは難しいのでできないが、写真という媒体が《それはかつてあった》という過去性を持つものであり、それ自体で自己完結している媒体であるとう特徴を開示している。「写真映像は充実し、満たされている。そこには何の余地もなく、何ものをもつけ加えることができない。」(同書110ページ)
こうした写真の過去性、静止性、自己完結性に関してのこだわりは、映画について語るとき、彼がいったい何を語ろうとしているのかが、はじめて見えてくる。
「映画の素材は写真であるが、しかし映画のなかでは、写真はこうした自己完結性を失ってしまう(映画にとっては、これは幸いなことである)。それはなぜか?映画では、一つの流れに巻き込まれた写真が、たえず他の画面のほうへ押し流され、引き寄せられていくからである。なるほど映画のなかにおいても、写真の志向対象は依然として存在しているが、しかしその志向対象は、横すべりし、自己の現実性を認めさせようとつとめはせず、自己のかつての存在を主張しない。それは私にとりつかない。それは幽霊ではないのだ。映画の世界は、現実の世界と同じく、つぎのような予測によって支えられている。すなわち、《経験の流れはたえず同じ構成様式に従って過ぎ去っていくだろう》(フッサール)ということ。ところが「写真」は、その《構成様式》を断ち切ってしまう。(「写真」の驚きはここから来る)。「写真」には未来がないのだ。(「写真」の悲壮さやメランコリーはここから来る)。「写真」には、いかなる未来志向も含まれていないが、これに対して映画は、未来志向的であり、したがっていささかもメランコリックではない(では、いったい映画はいったい何なのか?――それは、さしずめ人生と同じように《自然なもの》であるというほかない)。「写真」は停止しているので、その現示作用(プレザンタシオン)(現前化)は時間の流れを逆流して過去指向(レタンシオン)(過去把持)に変わってしまうのだ。」(ロラン・バルト著「明るい部屋」みすず書房p.110「停滞」より引用)
原理的には、映画が人間の目の錯覚を利用したものだと制作者として語ろうが、鑑賞者にとっては、映画は動く静止画ではぜんぜんないのである。写真と映画とはそれを見る者にとりまったく異なった現れ方をするのである。かたや過去把持、かたや未来志向。
「明るい部屋」を読んで、kjはそのことについて初めて気がついた。