その日の舞踏劇映画「朱霊」のトークショーはなかなか始まらなかった。森下隆氏(慶応大学アートセンター 土方巽アーカイブ)の到着が遅れたからだ。10分ほど遅れて来られたのだが、伊豆まで土方氏の墓参りに行った帰りだという。
小さな映画館とはいえトークショーの観客を数えたら14名ほどしかなかったのは寂しかった。主催者側の若い衆は森下氏に平身低頭謝っていたが、いくらなんでももう少しなんとか人を集めるべきだと思った。14名も半ばが関係者か知らん。私のごとき素朴な(=ナイーブな)客は数人だったかもしれない。岩名雅記監督自らが森下氏の脇に立つ形でトークショーは<さて始めましょうか>といったテンションで始まった。
ゲストの森下さんは客層をみて仲間うけするような話をしたようだ。もちろん土方氏の話に始終した。BUTOUとしてヨーロッパにひろまり、いまや日本以上に高い関心を持たれている舞踏だが、ヨーロッパでは舞踏家による活動だけでなく、舞踏研究・土方研究も日本以上に高い水準の論文が書かれるようになっているそうだ。現在の日本の舞踏家にもう少しがんばってもらいたいというのが墓参りをすましてまだ墓前での思いさめやらぬ森下氏の思いであったようだ。(写真は「土方巽の舞踏」川崎市岡本太郎美術館図録)
土方巽がどのように舞踏を作り上げたか?それがその夜のトークショーの核心であった。
土方は1950~1960年代に舞踏を作り上げた。そこには3つの影響があったと切り出した。
①ドイツ表現主義のダンス。秋田から上京、しかし土方は東京でアメリカのジャズの影響をまともに食らった。ジャズにかぶれた。「戦後日本のジャズ文化」(マイク・モラスキー著/青土社)という当時のアングラ文化を分析した研究書が数年前に出版されたが、当時ジャズが日本文化に与えて影響は大きい。しかし土方にジャズダンスはむいてなかった。
②実存主義の影響 ダダイズムとシュールレアリズム全体との交流を彼ははかった。その思想を自分の舞踏に生かしている。ここから新しいダンスをはじめた。ジャン・ジャネの影響も大きく、土方自身自分を土方ジャネと名乗っているほどだ。サドやロートレアンを下敷きにしているなど、フランスの文学の影響を多大に受けた。
③次にマルクス主義の影響や戦後の多くの思想を全身で浴びたということが分る。岩名さんの映画にもドヤ街が登場するが、土方はドヤ街を東京での生活の拠点としていた時期がある。東京に来てまもないころは食えないこともあって、一年ごと住まいを変えていて、しかも秋田と東京を行き来している。
高輪のお寺に寄宿し、秋田と東京を行き来する。そしてジャズとクラシックを学ぶ。その繰り返しであった。赤坂梁山泊にいた時期もある。そして阿佐ヶ谷に移り住み、それからここ黄金町に来る。
横浜に住んだその時期、大野先生の舞台を見ている。黒沢明監督の映画「天国と地獄」でも当時の横浜が分るが、当時簡単に手に入ったヒロポンに手を出し、ヒロポン中毒となった。なんとかその中毒から抜け出すのだが、そのドヤ街の生活で、労働者の様子をつぶさに見ていた。 彼の住むアパートは赤門通りの赤門荘といった。私は後に、そのアパートを探し出そうと土方さんの娘さんと探したことがあって、たぶんここだろうというところを突き止めた。また、アパートの住人がおかまであることは知られている。ではなぜ横浜だったのか?土方さんは大野先生の稽古場で踊ることがあって、そこに近いということが理由にあげられる。
その後東京→大岡山→アスベスト館(注:アスベスト館は、1952年に元藤燁子により東京・目黒に設立されました。1950年代から60年代初めにかけては、津田信敏近代舞踊学校として前衛舞踊の活動拠点となり、1960年代には、土方巽がアスベスト館の名を与え「舞踏」創造の場としたのです。〔Web土方巽アーカイブより引用〕)に入る。もし土方がこれに入らなかったら、今日の舞踏はない。ここで舞踏を生み出し、禁色が59年に発表され、60年61年62年アスベスト館と元藤さんの2つを自分のものにする…。
残念。そのあたりで巻きが入っている。やっと調子が出てきたところなのに、トークは丁度お時間とあいなりました。
最後に森下さんが岩名さんにエールを送り、岩名さんはせっかく観客席に出演者がいらっしゃるというので、ご指名で、長岡ゆりさんが客席からひと言「先日のポレポレ東中野での上映とは違って見えました。この横浜、黄金町の雰囲気によるのでしょう。ここはホコリっぽく、なんというか映像のシルエットが楽しめました。映像作品は生きていると感じました。」技官役のくびくくりさん(パーフォーマー)は「この映画はのろいと祈りがかかっている。こめられている。」と語っておりました。
さあ映画だ。気を引き締めて見ようと思った。(おわり)