映画冒頭に男性医師から語られるロボトミー手術は知っていた。映画「カッコーの巣の上で」(1975年)を見たときのショックを今も忘れはしない。とんでもないものを見てしまったという後悔しきりのデートだった。
ロボトミー手術はアイスピックでやるというのである。前頭葉辺をアイスピックでうまい具合に刺すと、狂暴な人間も穏やかになる。しかし人間的な感情が失われ、二度と戻ることはない。ノーベル賞も受賞したという、当時としては画期的な手術であったそうだが、これは治療ではないだろう。日本では1975年に廃止宣言がだされたという。
この映画では、もう一つの野蛮な治療法である電気ショック療法が実施される場面があった。その電気量のアンペア数も定かでないいい加減なものであることを主人公の女性精神科医ニーゼは鋭く突く。もちろんアイスピックでなく言葉でだ。
どのような精神医療を目指すべきか?彼女はまず、これからは患者と言わずクライエントと言うようにと看護師らに徹底させた。そして作業場を光あふれるアトリエにして、クライエントに絵筆と絵具を与えた。病院がもたらす恐怖と束縛で閉ざされてしまった彼らの心を解放しようとする試みであった。その着想の底辺に、ユングの精神分析学があり、無指示性のカウンセリング療法があった。
ユングは、精神は身体と同様に自己治癒能力を持っていて、本来の姿にもどろうとする力がある考えた。その心の相補性はユング派のカウンセリングによって確認できる。
今、クライエントが言葉を失って会話が成り立たないのであれば、絵を描くことによって、クライエントの心の中の無意識のイメージが表現されているのではないか。精神科医が見守るなかで絵を描き、その絵についてともに語り合うことを通じてクライアントの心の闇に光がさしていくのではないか、ニーゼの着想とはそうしたものだ。
だが、絵で過去の闇を表現することは、過去の触れたくない何かを暴くこと、抉ることにもなる。かえって情緒不安定になり、精神が壊れてしまうことだってあるかもしれない。精神科医はそういうことににも注意を払わなければならない。決して自分の治療法にうぬぼれないこと、クライエントの身を常に気遣うこと。自分の行う治療法の成果や実績ばかりを気にかけて、保身や名誉にばかりに気をとられてはならない。また、クライエントとただ親密であればいいのではない。クライエントとの節度ある距離感も忘れてならない。そういった精神医療の難しさも映画の後半で描いていた。
つねにクライエントとともに、人間として対等の立場に立って、治療に専念すること。
ブラジルでの実話をもとにした映画だ。ずしりと伝わるものがあった。
原題:Nise da Silveira: Senhora das Imagens
監督・脚本:ホベルト・ベリネール
キャスト:ニーゼ→グロリア・ピレス、アデリナ→シモーネ・マゼール、カルロス→ジュリオ・アドリアォン、エミジオ→クラウジオ・ジャボランジー、フェルナンド→ファブリシオ・ボリベイラ、ルシオ→ホネイ・ビレラ
製作年:2015年
製作国:ブラジル
上映時間:109分