井手さん等の3人展「空と雲展」に行ったのはたしか去年の11月1日。東京・八丁堀のギャラリー「dg」ということで、ちょっとしたと東京下町散歩をしました。
地下鉄の八丁堀駅を上がって、まずどこだ、どこだって道がわからない。こっちだろうなって、亀島橋という江戸っぽい名前の橋を渡る。渡りきった橋のたもとでまたどっちかな?するとこんな句碑が立ってます。「菊の花 咲くや石屋の石の間(あい)」。
松尾芭蕉50歳の句だという。芭蕉が亡くなったのは51歳、元禄七年(1694年)のことだから、死ぬ前年の作である。
「菊の花 咲くや石屋の石の間(あい)」
老境にあって、じつに軽い。新築なった芭蕉庵に住んだのが前年元禄六年のことだから、この八丁堀界隈を歩いていてたまたま見た光景を詠んだ俳句にちがいない。
(ちなみに橋の上からの現代の風景はこんな)

今は想像できないが、当時はどこからかノミで石を削るキーン、キーンという音が聞えきたのだろう。
この句を映像で表現したらどうなるだろうか?なんて句碑を前にして思って、ぼーー。
この句、菊の花へのクローズアップで構成されている。
なんともなげに歩いている。と、キーン、キーンという石を刻む鋭いノミの音が聞えてくる。(あ、あそこは石屋だな、何を彫っているのかな、墓石だろうか、だったら誰のか?なんてカンジで見てる芭蕉。するとその仕事場で働く職人の先の端っこに、雨ざらしになった石と石の合間に野菊の花が可憐に咲いている…。
kj的にはそういうかんじだ。
もし映像で表現するのだとやっぱ効果音として、石をノミで削る音は欠かせない。そして映像は、最後に菊へとクローズするアップだ。
kiku no hana saku ya isiya no ishi no ai
sakuya ishiyanoのところのyaの繰り返しと、ishiya no ishino というところの「イ」の母音の繰り返しのところが小気味いい。とくに「イ」音の繰り返しは、キーン、キーンという石を打つノミの音のカンジで聞えてくるんだな。この音遊びをしている繰り返しのリズムが絶妙だよな、
やっぱ芭蕉はスゴイね、なんて考えつつ、ぶらぶらと目的地へ。
ギャラリー「dg」の斜向かいに小学校+保育園(?)があった。

ここもアートしている。

右のひまわりは今年「植えたな」左のコスモスも「今見ごろだ」なんて自分のアート・ファームを想起して、中央のあの青い小さな花は何?(朝顔かな?)
キャラリーdgはこんなふう。(もっとアバンギャルドはたたずまいを想像していたが、意外や意外。(というより八丁堀らしいか…)(なにかもんじゃ焼き屋ふうだぁー。)

3人展なので、井手さんの作品群は入ってすぐの壁面一面。

一枚だけ新傾向の色使いのがあって、ひと際目を引く。

こんなのもあって、楽しい。

井出菜穂さん自身のコメントが壁面に書かれていた。
そのままここに引用します。
<常に考えていること>何を描くか!で多少変化がありますが、心の中の感覚を思う通りに表現したい。あるいは想像しているイメージが描写中に拡がっていき、そこから次の作品へのつながりがでてきたら心地よい。観る者が作品を通じて心に何かを感じてほしい。
この文章を読んでいて、kjが思ったこと。
抽象画はまったく心の世界。でもデザイン的なものがそこに入り込んで絵が描かれている。と言うよりデザインがそもそも現実の視覚から遠ざかっている抽象によって心地よくデフォルメされたイメージだ。ただしデザインには遠近がないように思う。図案とも訳されるデザイン。いったい心の中に浮かぶイメージとそのイメージを誘い出すデザインという画像との間にはどのようにかかわりがあるのだろうか?または逆にどのように拮抗しあっているのだろうか?